最高裁判所第一小法廷 昭和52年(ク)409号 決定 1979年7月19日
抗告人
渡邊秀次
右代理人
田中正司
原誠
相手方
渡邊博子
右代理人
下光軍二
外二名
主文
本件抗告を却下する。
抗告費用は抗告人の負担とする。
理由
民事事件について最高裁判所に特に抗告をすることが許されるのは、民訴法四一九条ノ二所定の場合に限られるところ、本件抗告理由は違憲をいうが、その実質は、親族間における扶養請求権についての原決定の解釈に法令違背があることを主張するものにすぎない。そして、右の点に関する原審の見解の当否については、抗告人は別途民事訴訟によつてこれを争うことができるのであるから、いかなる意味においても憲法違反の問題を生ずることはないのである。したがつて、本件抗告は同法四一九条ノ二所定の場合にあたらないと認められるから、本件抗告を不適法として却下し、抗告費用は抗告人に負担させることとし、主文のとおり決定する。
(中村治朗 団藤重光 藤崎萬里 戸田弘)
抗告代理人田中正司、同原誠の上告理由
一 原審が扶養請求権の相続を認め、扶養請求権利者としての申立人亡渡辺みきの地位をその相続人に受継させたことは、憲法三一条の法の適正手続の保障、同法三二条の裁判を受ける権利に違反する。
1 そもそも家事審判事件は家事審判事項に限定され、審判されるのが原則である。家事審判事項は民法その他の法律で定められており、民法上のそれは家事審判法九条に列挙されている。これら家事審判事項は、個人の尊厳と両性の本質的平等を基本とし、家庭の平和と健全な親族共同生活の維持を図ることを目的とする家事審判制度により(同法一条)、言わば家庭の紛争を訴訟手続によらずに、家庭裁判所が職権主義や秘密主義を原理とする特別の手続により、裁量的、合目的的に処理される。
2 しかし家事審判事件はその性質上、帰属上、行使上の一身専属の権利ないし地位が審判の対象となることが多い。扶養請求事件は、まさにそのような家事審判事件である。従つて、扶養請求事件は、訴訟手続によらず家事審判制度によつて処理される一方、扶養請求事件における当事者たる扶養権利者又は扶養義務者の死亡によつて当然に終了し受継の問題を生じないこともまた明らかである(裁判所書記官研修所教材第一一三号家事審判法実務講義案一〇一頁)。
3 ところで原決定は、扶養料の請求によつてその範囲が具体化し、更に審判等によつて金額等が形成されたときは純然たる金銭債権と化し一身専属性を失うとし、相続を認め、相続人渡辺博子をして原審の「本件抗告手続上の相手方としての地位を承継」せしめた。
4 しかし、扶養を受ける権利は請求権ではあるが、債権でない(民法八八一条)。単なる、純然たる金銭債権の問題であるならば家事審判事項ではなく、家事審判制度により処理する必要はない。又、扶養権利者の扶養請求だからこそ、その請求に対し、反対債権をもつて相殺の主張をなすが如きは妥当でないが、扶養を必要としない相続人からの純然たる金銭債権であるならば相殺が認められて然るべきである。特別抗告人は渡辺博子に対しては多額の反対債権を有しており、同人に金銭を支払う理由は少しもない。通常の訴訟手続であるならば当然相殺を主張することができるからである。
5 そもそも受継の制度趣旨は、あらためて申立をさせることの不経済、事件の遅延等を避けるためであり、死亡した申立人の申立と相続人の申立との間に同一性があるからこそ認められるものである。しかし、扶養請求が帰属上、行使上の一身専属的権利ないし地位であるから、申立人と相続人との間に初めから同一性は考えられない。家事審判手続内においては、狭義の審判手続内と抗告審とを問わず、受継を認めるべきでないし、これを認めることは、審事審判制度の自己破綻である(注釈民法(25)七七頁)。
6 原決定は、家事審判手続によつて処理してならない事項を処理し、特別抗告人の法の適正手続における裁判を受ける権利を侵害したもので、憲法三一条、三二条に違反するものである。
<参考・原決定>――――――――――
(東京高裁昭四九(ラ)三三一号、昭52.10.25決定・変更)
〔主文〕
一 原審判を次のとおり変更する。
二 抗告人は相手方に対し金六八万七、三六五円を支払え。
三 抗告費用は抗告人の負担とする。
〔理由〕
一 本件抗告の趣旨及び理由は別紙(略)のとおりである。
二 審按するに、承継前申立人亡田辺きみ(以下きみという。)が本件扶養料支払の申立をしてから同人が死亡するまでの扶養料支払義務に関する認定及び判断は、次のとおり附加するほか、原審判理由記載中きみ関係部分と同じであるからこれを引用する(但し、原審判三枚目―記録一二六丁―裏一一行目に「現在」とある前に「昭和四九年六月」を加え、原審判五枚目―記録一二八丁―裏四行目に「現在」とあるところから次の行に「係属して」とあるところまでを削り、原審判八枚目―記録一三一丁―裏一二行目に「現在」とある前に「昭和四九年六月」を加え、原審判一一枚目―記録一三四丁―裏九行目に「八一歳の」とあるのを「八〇歳を超える」と改める。)。
原審判九枚目―記録一三二丁―表一行目に「している」とあるのを「していた」と、同表二行目に「あること」とあるのを「あつたこと」とそれぞれ改め、表三行目に「きみが」とあるところから同表九行目末尾までを一きみは前認定のとおり昭和四二年頃一度抗告人に引取られて生活したことがあり、もし抗告人の保護を離れて相手方恵子(以下恵子という。)と同居すれば、やがては困窮した生活に陥ることを十分予想し得たのに拘らず、僅か数日の後再び従来抗告人と仲違いをしていた恵子の下で生活するようになつたことから考えれば、きみの要扶養状態を作り出した責任の一半はきみ自身にあるということができる。
しかしながら、扶養はそもそも物質的給付に限られるものでなく精神的扶養の問題も考慮されねばならないとすると、恵子独自の生活方針生活態度等によりその生活困窮度を深めているとはいえ、病身であるきみに対する日常生活上の介護等は評価でき、それならばこそきみも従来馳染んだ恵子との生活に落ちつきを見出していたのであつて右きみの責任も必ずしも過大に考えることはできない。
そうすると、きみ及び恵子が生活保護等を受けてきたのに反し抗告人の方は多くの収入がないとはいえ、後記のように多数の資産も有するのであるから、きみに対して金員を提供して扶養をなすべき義務があるというべきである。
尤も当審においてきみは、別紙目録(略)記載の不動産について死亡する迄三分の一の共有持分権を有していたことが判明したが、きみがそれによつて収益を得ていたことは認められないし、きみが老齢かつ病身であつたこと及び右が処分し難い持分権であること等を考慮するとこれを現実に現金化することが困難であつたと認められ、これをもつて直ちに叙上の判断を左右することはできない。抗告人はきみの扶養は抗告人が金銭を給付してするのではなく、きみを抗告人の自宅に引取つてするのが相当であつたと主張するが、きみの病状その他の日常生活状態から見てその方法が適当であつたとは到底考えられないところである。」と改める。
三 相手方きみ代理人は当審において「きみは昭和五〇年八月五日死亡し、恵子と抗告人とがその地位を相続した。よつて、恵子は本件家事審判手続の受継の申立をするとともに、原審判において認められたきみの権利を恵子が右相続によつて取得した。」と主張するのでこの点につき検討する。
承継前申立人であるきみが死亡したのは昭和五〇年八月五日であり、本件申立後であることは記録上明らかであるから相続人である相手方恵子により如何なる範囲できみの地位が承継されるかにつき考えるのに、一般に親族間の扶養請求権そのものは一身専属の抽象的な権利であるが、扶養料の請求によつてその範囲が具体化し、更に審判等によつて金額等が形成されたときは、その形成された扶養料は過去のものであると現在及び将来のものであるとを問わず純然たる金銭債権と化し、一身専属性を失うものと解するのが相当であるから相続の対象となるものというべきである。そしてきみが、昭和四八年四月二〇日本件申立をなしたことは明らかであるから、その時において扶養料の始期が始まり、原審判によりきみの抗告人に対する扶養請求権は右の日を始期とし、終期の定めなく毎月末日限り五万円宛支払うべき旨定められており、当審においても同様の判断をするのを相当とするので、右扶養料はきみの死亡に至るまでの分につききみの相続人らによつて相殺されうるということができる。
そうすると、相手方恵子は相続人としてきみの本件抗告手続上の相手方としての地位を承継することができるものということができる。
記録によれば、きみの相続人は抗告人と相手方恵子の二人であり、いずれもきみの子であり法定単純承認をしたことが認められるから、その相続分は各二分の一であるというべく、恵子は右相続により、原審判において認められたきみの扶養料のうちその支払の始期から同人死亡の日に至るまでの合計額の二分の一に当る金六八万七、三六五円(計算関係は別紙計算書(略)のとおり)の支払請求権を取得したということができるから、抗告人は恵子に対し右金員を支払う義務がある。
なお抗告人は「自己の責任により資力を喪失し、ために扶養義務を免れた恵子が、きみの抗告人に対する扶養請求権だけは相続により取得するというのは不条理でありかつ信義則上も許されない。」と主張するが、相続法上上記のように解するのが妥当でありかつ前記のように恵子はきみに対して経済面はともかく、現実的給付による扶養ともいうべき監護介護の面では貢献しているのであり、他方抗告人は財産的にはもちろん事実上も何等きみを扶養していなかつた事情にあるから、かく解したからといつて不条理又は信義則違反ということはできない。<以下、省略>